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一人で行けたバス移動、車必須の田舎暮らし。  送り迎えという不自由の中に見つけたメリット

暮らし

北九州で暮らしていた頃、習い事は「一人で行けること」が当たり前で、効率よく回る毎日になんの疑問も持っていませんでした。けれど、岡山の田舎へ移り、車での送迎が生活の絶対条件になったことで、私の日常は一変しました。仕事帰りの買い物を後回しにしてでも、遅刻厳禁でハンドルを握る日々。そんな不自由な「送り迎え」という時間の中に、実は北九州時代にはなかった、次男との大切な対話の時間が隠れていました。

田舎だと思ってた北九州

北九州にいた頃は、とにかく移動の便が良くて、それが普通だと思って生活していました。次男が5歳のとき、「何か習い事をさせたいな」と思っていたら、ちょうど近所の公民館でキッズダンスを教えてくれるところが見つかって。その時はまだ小さかったので、長男と一緒に歩いて通わせていたんです。

その後、7歳になる頃には「もっと本気でやりたい」ということで、車で7分ほどの距離にあるダンススクールへ通い始めました。でも、そこはあまり上手く馴染めなかったみたいで。結局、小学校3年生になる頃には、一人でバスに乗って20分かけて別のスクールに通うようになっていました。

バス停からもスクールが近くて、子供が一人で習い事に行ける環境に全く不便を感じていなかったんですよね。それでも、当時は北九州のことを「結構な田舎だな」なんて思っていたんですけど、今思えば、公共交通機関が整っていて、子供が自分の足でどこへでも行ける環境は、ものすごく恵まれていたんだなと思います。

でもその時は、その「便利さ」の裏側にある、親子で過ごす時間が減っていることには、あまり気づけていなかったのかもしれません 。

全力無視で車を走らせる、新しい「義務」の形

岡山に来て、小学校4年生になった次男がバレーを始めたんですけれど、そこからの毎日は、もうとにかく「送り迎え」という予定が生活のど真ん中にどっしりと居座るようになりました。仕事が終わって、会社から家に向かう道中に、ちょうどいいスーパーが視界に入るんですけれど、あ、あそこで買い物したいな、って一瞬思っても、もうそれを全力で無視してハンドルを握り続ける、という。

なんて言うか、とにかく先に送る、そこからが自分の時間、みたいな。その後でようやく自分の買い物を済ませて、一息つく間もなくまたすぐに迎えに行く、というループの繰り返しで。
今の私にとって、練習に遅れずに次男を届けるのは、会社に出勤するのと同じくらい、絶対に遅刻しちゃいけない「義務」みたいなものになっていて。北九州であんなにスイスイ移動できて、一人で行かせるのが当たり前だった頃の身軽さと比べると、なんだかこの、予定がガチガチに固められた不自由さが、すごく重たく感じることも正直あるな、と思います。

正確には、重たいっていうか、聞こえが悪いかもしれないけれど、生活の優先順位が強制的に書き換えられた感じでした。
でも、その「絶対に行かなきゃいけない」っていう強制力が、実は今の私たち親子にとって、ただの移動以上の意味を持ち始めているような、そんな気がしているんです。

不自由な車内が、いつの間にか「聞き役」の特等席に

買い物を済ませて、そのまま帰るんじゃなくて、練習している子どもをじっと見ている時間。北九州のときは、パッと送って「あとは一人で頑張ってね」という感じだったけれど、今はその場所で次男がバレーをしている姿を、ただぼんやりと眺めている時間が、生活の一部に組み込まれてしまっていて。

今の中心にあるのは、用事を済ませることよりも「見守ること」そのものなのかな、って思うんです。お迎えの帰り道、車の中に二人きりになると、次男が自分の話をよくするようになった気がしていて。今日の練習がどうだったとか、そういうなんてことない話を、車内の狭い空間で聞けるのが、実はすごく贅沢なことだったのかもしれないな、と思います。

不便になって、送り迎えが必須になったからこそ、無理やりにでも「一緒にいる環境」が作られたというか。効率を求めていた頃には、こんな風に次男の言葉を一つずつ拾い上げるような時間はなかったし、不自由になったことで、むしろ心の距離は少し近くなったのかも、なんて。

送迎そのものが楽になったわけじゃないけれど、結局、車の中で子どもとあれこれ話しているときが、一番自分も笑っていられるんだな、っていうことに気がついたんですよね。その「笑える時間」があるって分かってからは、送り迎えがきついな、とか、面倒だな、っていう気持ちが、不思議とスッと消えていきました。

最後に

北九州にいた頃の、あの何でも一人で完結できてしまう便利さも、今振り返れば愛おしい気もするんですけれど。でも、今のこの不便さの中で手に入れた「一緒に楽しむ環境」っていうのは、それとはまた全然違う、もっと深いところでの納得感というか、手触りのある感覚なんだろうな、と思っています。

便利だった頃は、一人で通わせることが自立だと思っていたし、親が楽をできることが正解だと思っていました。でも、今のこの「全力でスーパーを無視して送迎に向かう」という一見すると非効率な毎日が、実は次男の小さな変化や、日々のたわいもない話を聞き逃さないための、大切なフィルターになっていたんだな、と。

北九州のスマートな暮らしも、それはそれで一つの形だったけれど、今のこの泥臭いというか、付きっきりで移動する時間は、それとは全く違う種類のもの。結局、車内で子どもと笑い合っている瞬間が、今の私にとって一番のエネルギーになっていることに気づいてからは、あの「送迎のしんどさ」も、どこか愛おしい日常の一部に変わりました。不便になったからこそ見えてくる景色って、案外、心を満たしてくれるものなんだな、と感じています。

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